清水亭の庭の中央には外の堀に通じる池があり、その周囲を回遊できる苑路がついています。道に沿って灯篭も置かれており、かつては小さな池の中央の石上に据えられた小さな灯の火をともしに木船に乗って行ったそうです。裏山の斜面を利用しての庭には、池に続く川を見立てて竜門瀑や鯉魚石もあって、昔ながらの庭づくりの装いが見られます。しかもこれは1669年、福山城主水水野公が吉浜干拓を行う前の事ですから、家の前には瀬戸内の海が広がっていたはずで、庭に使われている石のほとんどすべてが波打ち際の自然の石をそのまま庭づくりに生かしているところに大きな価値があると斉藤先生は言われたそうです。1770年代になって京都の俳人でもある寺人「ちょうむ」という方が、その紀行文「浜千鳥」に清水亭の吾妻屋を「清音亭」と称し、俳句指導に当たっていたことが記されています。当時の当主の雅号が露風(路風?)、その子が五風ということまでわかっていました。三尊石、遠山石がおかれ、手前には礼拝石まで置かれて竜門瀑を見ながら修行する設定を思わせるということです。仏教思想につらぬかれて一段と聖なる雰囲気をかもしだしています。「矢掛屋」はかつて矢掛から出てきた海運業で財を成したと伝えられています。清水亭の家には船箪笥も置かれており、当時を偲ばせる家具が現存しています。清水亭の清兵衛という方は実業家であるかたわら、社会貢献も大きく、例えば神島八十八か所のうち二ヶ寺への寄付、啓業館設立の陳情と、銀20貫の寄付などです。今では駅前の区画整理でなくなりましたが、矢掛通りと呼ばれるくらいの繁盛ぶりだったようです。私はあまり歴史通ではありませんが、干拓前の私の生地がどういう歴史をたどってきたのかにはこの庭園のお話を通じて大いに興味がわきました。