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13年前、初めての選挙後、眼底出血でレーザー治療を受けました。 そんな人に多いんです、先生は言われます。それだけでなく老化も手伝って、左目の視力が段々なくなると感じていましたが、まさか黄斑前膜と言う膜が悪さしてるとは思いもよりませんでした。一度は手術が怖くて断りましたが、目は大切、見つけてもらった時が機だ、と言う息子の言葉に決心しました。7日入院、8日手術。順調です。 左目の眼底の張り付いてものの歪みや視力低下を引き起こす膜を取り除く手術です。眼球の下当たりに瞼の下から麻酔を注射。眼球に三本の針のような管を差し込みます。ひとつはLight。暗い眼球内を照らします。ひとつは白濁して手術の妨げになる硝子体液の吸出し、かわりの水溶液の注入、最後のひとつはピンセットのはたらきをします。これで膜を取り除くのですが、途中血圧が200以上に上がって3度程降圧剤使用、緩やかなグルグルと言うドリルのような音、何もかも不安材料に囲まれて40ふん後終了しました。昨夜は腰の痛みに悩まされ、夜中2時過ぎからまんじりともせず湿布と温まくらで対応して頂きやっと治った次第です。なるべく動こうと思っています。少しでも早く復帰する為に。
[追記]入院中の病院は、全部個室で、機器使用OK
福島は会津若松市に、笠岡市民病院から「僕が行って何かしなければ」と、震災後に向かった先生がおられます。なぜか、会わなければという思いに駆られて、お訪ねしました。こんなに遠いとははじめ思ってなく、郡山から1時間半もかかりました。電車に乗り換えて走る窓の外に、電車が右にカーブした時突然目の前に磐梯山が見えた時には山ってなんてきれいなんだろうと心を揺さぶられました。
釜石、大船渡、陸前高田とリアス式海岸を南下しました。道の駅などに立ち寄るとにぎわいがあり、生活が感じられました。なのに、ここに人の生活の営みがあるのかと疑いたくなるような無毛な光景ばかり。見る人をも不安にさせる風景です。
jcp宮古ボランティアセンターですッ!(旧・住めば“みやこ)のサイトは「日本共産党の宮古地区ボランティアセンターです! 日々の活動や現地の様子を発信していきますね(^o^)」 ということで、地元の活動はもちろん、全国からのボランティアのことも紹介しています。
5月3日付の同ブログ記事「岡山からボランティアが続々来訪①」の見出しで紹介されていました。
宮古に来て3日目の4月27日には、津山の末永市議の地元から野菜やお米がたくさん届けられました。赤いトマトがとてもおいしそうでした。そういえばVCの中にある支援物資のおコメはほとんどが岡山産。岡山が宮古の台所を守っているという感じでした。やがて岡山から1300キロ以上の距離を走破、21時間かけてやってきた岡山農民連の人達が野菜を持って到着しました。明日の準備をし、夕食はみんなで買い出しに出かけ、農業談義に花が咲きました。いよいよ28日当日、8時には荷物の搬出がありますので早朝から出かける準備です。5台の車に荷物を詰め込み、スタッフも乗り込み、赤前地区の保育園に向かいます。搬入のみのお手伝いも含め、総勢42名がバザーのお手伝いをしました。保育園の園長先生を初め保育士の皆さん13名、盛岡から野菜を運んでのお手伝いのから、仮設の方も手伝わせてくださいと2名が参加、私たち岡山勢4名と地元支部の方・・多くの皆さんが手分けして準備です。外にはすでに100名以上の列ができていました。私達の役目は出口で洗剤セット、野菜セット、お米セットを必要なものを買い物袋に入れて帰られる皆さんに手渡しすることでした。天気にも恵まれ、元気に無料市を利用される皆さんの姿にほっとしたものです。本当に来てよかったと思いました。バザーの片づけの後は昼食交流会です。皆さんが一言述べられますが、仮設から来られた方が、「2年たちました。やっと娘の死亡届を出すことができました」と言われ、胸のつぶれる思いでした。皆さんのこと私たちは忘れません。という気持ちに改めて立ったものです。
樋之津倫子 個人質問(平成25年3月 笠岡市議会)
仮設住宅の訪問が終わり、雨の中、被災した海岸線に連れて行って頂きました。一番ひどかったのが田老(たろう)地区です。8.2メートルの巨大堤防を誇るこの地区にはかつて海外を含め、多くの方が視察に来られたそうです。二重になっていてそれまでは禁止されていた家屋建築が、可能となり、海岸に近い便利な居住空間になっていたようです。しかしいったん津波などの災害では、最も危険な地域となり、何より安心して避難しなかったことが人命にかかわる大きな被害を招いたと言います。防波堤内側の陸地には何もなく、ただアスファルトの道路だけが走っているのが目につきます。あとは、家の土台となったコンクリートと雑草だけが広がっています。ここを町として再建し、人の暮らしが息づくのはいつの事でしょうか。住民の声を生かした街づくりが望まれます。ささやかながら仮設住宅の訪問と、住んでおられる皆さんの声を聴かせていただく今日の活動はその一端となる共産党の取り組みでした。お手伝いできて本当に良かったと思っています。
ボランティア担当のたかのはしさんに同行して仮設の訪問をしました。聞き取り活動です。訪問に際し、手紙と皆さんに使っていただく洗剤も用意されていました。私たちは2つの仮設を回りました。市内には、空き地を利用した仮設住宅地が62箇所もあります。今までのお隣さん、友人がどこにいるのかもわからず、離れた集会所でのイベントなどに出かけない限り特に交流もなく、一人で出掛けにくいお年寄りなどは、自宅にこもるしかないとわかりました。人とのつながりや交流を楽しむことって被災した人たちにはとてもむづかしいものだとわかりました。日中の仮設訪問では一人暮らしや一人でお留守番のお年寄りが多く、中には亡くなられた方、引っ越された方もおられました。
5月だというのに寒い朝でした。苺のハウスを持つ友人宅にハクビシンが現れました。とても私には珍しいニュースなので、その写真を頂きました。ハウスにイチゴ狩りしていたところを捕まえたのです。それにしても近くからよく写真に収められたものです。里に下りてくるとはイノシシならぬハクビシンもまた食糧難なのでしょうか?とらえられたハクビシンは市の職員によってどこか遠くに放されたみたいです。